ずっと空を見ていた / 円環

ずっと空を見ていた

最初に僕の考え、というか単純な好みを述べたほうがいい。僕は冬が好きだ。

もちろん夏と比較して。夏についての愚痴なら僕はいくらでも絞り出すことができる。こう書いているうちにも、家に蚊がいるという事実は僕をすばらしい不快感で包む。今日は暑かった。つい昨日までの旅で訪れた場所はもっと暑く、滝のように汗をかくという体験をずいぶん久しぶりにした。写真の観点で言えば日差しが強すぎ、陰が濃すぎる。どちらも好きではない。

自分くらいの年齢(高校生の後半から大学生にかけて)であれば音楽、小説、写真、などの「雰囲気」として明るいものを好むか暗いものを好むかで夏と冬どちらを好むかが分かれる。僕はお察しの通り後者なので冬を好む...というのが僕の持論である。が、この「雰囲気」の好みには”他人から見える自分”が明るいか暗いかはもちろん関係がない。とにかく僕は個人的に暗くて個人的に冬が好きだ。

もちろん夏も爽やかで良い。虫などスプレーでも撒けばいいし、猛暑のなか麦茶を飲むのは夏の醍醐味でもある。旅のあいだよく聴いた、これを聴くなら夏しかない、という音楽にはどれも爽やかさと儚さが同居していてもちろん素晴らしい。しかし度が過ぎているのだ。夏の長所を長所として楽しむには不快感が強すぎる。もはや本来の役目を果たせなくなりただの観光地となったかつての"避暑地"もそれを示している。もう少し控えめに…具体的に言うなら気温を下げて虫の数を減らしてほしい。

ここまで言って冬になったら今度は夏のほうが良い、などと言うほど近頃の僕の考えはふらふらしていない。こんどの冬に、冬を思いきり賛美する記事を書こう。

 

8月6日。去年や今年の夏に撮った写真を見返していると、僕は入道雲や晴れた空の写真ばかり撮っていることがわかる。さてなぜだろう。「来てしまったものは仕方がない」からだ。僕は夏が好きではない。あるとしても三日間くらいでいい。しかし夏は来る。毎年夏は来る。夏が来てしまったら、それをなんとか乗りこなさないと自分がとんでもなく惨めな者のように思われる。誰から見て?自分から見て。そうならないためには、何もなくてもなんとかして夏を満喫しなければならない。そういう焦りから生まれる、プールに溺れる人が水面を掴むような、絶望的な状況をなんとか打開するための必死の行為。あの曲の「夏の魔法」というものの正体は焦燥感にほかならない。そういうものから逃れるためのひとつの方法として、僕は夏の代名詞ともいえる入道雲の写真を撮る。それを冬に見返して、「なるほど、今年も夏があったのか」と思う。そうすることで、何も記録や記憶が残っていないよりは"観測した事実"というものが存在するからその年の夏に関して経験とその記憶が増える。なんとか生き延びる。

僕はもっと軽く考えるべきだ。夏はなにかを起こさなければいけない季節ではない。ただ暑いだけの、腐敗の季節。「街に吹き荒れる腐敗の季節」。そう、僕が僕でいられなくなる必要はない。第一に自分が劣っていると感じられるのはなにも夏だけではない。残念ながら。しかし夏は日差しが強すぎ、陰が濃すぎる。濃い陰からの脱出計画を、瓦解したそばから今日も立てずにはいられない。しかしそういう営みが他人に見られることはない。友達に自慢したいこと、夏らしいことができた時だけInstagramを開いてストーリーを載せればよい。皆そうしている。このように手段はわかっているが、僕はこういう仮の結論が出る度口癖のように「そういうことじゃない」と言う。それは誰にも聞かれない。

夏と冬はすべてが対照的だ。そしてその要素のうち冬側にあてはまるものを僕は好む。夏は動、冬は静。誰も彼も動かない、静かなほうがいいに決まっている。しかし僕は流行にはいちおう乗っておく人間なので、できることなら季節にあった旅先を選ぶか、季節にあった対象に触れてみたい。

そう、昨日まで新潟と、帰りに長野の北の方に立ち寄った。最初に降りた三条市の小さな駅はものすごい暑さで、田園のみずみずしい緑と夏雲と空を観測した。肌を刺すどころではなく抉ってくる太陽光線は暴力的で、"逃げ場がない"と思った。

最近はこういう余計なことを考えるようになった。"理想"や"期待"とそれらの対義語がいつもキーワードで、数年前に比べて哀しい人間になったと思う。もちろん僕から見て。悪いことではない。環境や成果は数年前とそこまで変わっていないがそれを大袈裟に喜んだり悲しんだりする。それを今のところ正しいと思っていることを、ここに記しておく。ここはいつでも私的な日記に限りなく近い、いつか読み返すための記録。

本当はもっと別のことを僕は求めているような気がするし、それを手に入れるためには今持っているものを一切合切捨てていかなければならない気がする。そうして行き詰まりかけても僕は思考を止めてはならない。歩みを止めてはならない。「踊るんだよ。」この前読んだ小説のどこかで誰かが言っていたのを思い出す。

(2021年8月6日)

 

 

円環

新潟へは旧友ふたりと行った。僕は「旅」と「旅行」についてわりと明確に異なる定義を当てはめていて、それが世間一般とか辞書とかでは正しくなくても自分のなかでは"そういうこと"になっている。自分の趣味と謳うからにはそれについてきちんと考えて、自身の考える正解を出しておかなければならない。

旅。家を出てから目的地に向かって帰るまでのすべての行為が目的。値段と時間が許せば普通列車や船などでゆっくり行くとよい。テーマパークに行かない。ネガティブな動機。そしてひとりが望ましい。

旅行。目的地で何かをすることが目的。目的地までは早く着いたほうがよい。テーマパークに行く。ポジティブな動機。ひとりで行ってもいいけど、まぁ普通は友達たちと、恋人と。

とりあえず僕は自分の趣味として前者の"旅"を設定している。しかしこれが(どうでもいいけれど)ややこしい。昨年大学に入ってから自己紹介する機会が当然いくつかあり、そこでは当然自分の趣味を言うことになる。そこで僕は"旅行"と"写真"を挙げる。"旅"ではなく"旅行"。ダメだ。「自分の趣味は"旅"です」とクラスメイトの前で言ってしまってはダメだ、滑るから。そういう場では最大公約数的な言い方をするべきなのだ。今回の話をする上ではどうでもいいが。

そうそう、僕は写真も撮る。事実趣味を訊かれて"旅行"と"写真"と答えるのは鉄道の撮影を趣味とする者がその趣味を隠すための常套手段で、自分が現在趣味と掲げている旅行や写真の起源もそこにある。モテるかどうかは別として趣味に優劣はないが、その点でいうと撮り鉄は近年本当に酷い。酷い箇所というのはいくらでも見つかるが僕にとって重要なのは「外聞」だ。

 

僕の自意識はいつの間にかさまざまなコンプレックスを溜め込んで肥大化し、僕にとっては僕がそんなことを趣味としていた事実すら耐えがたい。あまり自分の過去を否定したくはないが僕がそれに中学から高校にかけての数年間を費やすことなく旅行・写真という2つにたどり着ければよかったと常々思うが、まぁそう上手くはいかない。そして僕がここまでその趣味を呼ぶ上で最もメジャーな呼び方を使っていない、分かりやすさを無視して代名詞ばかり使っている、ところから僕の"それ"に対する評価の低さは想像されたい。

しかしどうだろう、そこから発展した「旅行」や「写真」という趣味はとても人聞きがいい。これは僕にとってとても嬉しいことで、自己肯定感の向上に一役買っている。今どき趣味らしい趣味を持っている人間自体少なくなっているが、好きなことを聞かれて僕が「旅行と写真ですね。」と答えると相手の反応は驚くほど良い。相手が年上だろうが年下だろうが、同性だろうが異性だろうが、好意的な反応が返ってくることが保証されている。なんていい趣味なんだ!

なりたい自分というものが最近ようやく出来上がってきたように感じる。その像には写真を撮りながら各地を旅する現在も取り込まれている。だから僕は人と話すとき、よく「旅をしなければならない」という言い方をする。僕は僕の機嫌を取るために、しなければならない。そうやって僕が僕の自意識を制御できるようになれば良いなぁと、思う。そのためには僕は海外に行かなければならない。十字架の丘を、シャウエンを、ロカ岬を、イルクーツクを、ウユニ塩湖を、この眼で目撃しなければならない。旅のことになれば僕はとことんアクティブだ。いつか僕が海外に旅立って、全能感を手にするまで今は何をしなければならないのか、そういうことを考えていると道は自ずと見えてくる。見えてきている。すべては輪っかのように自分の中で繋がっている。

(2021年8月6日/2022年4月8日)